暮らし百景アーカイブ50

三度目の成人式。入社当時にお世話になった上司が、今月、定年を迎えるという。営業一筋、三十余年。年に十足は靴を履き潰すという彼は、まさに「契約は足で取れ」という言葉を地で行く人だった。雨の日も風の日も、ビル街を早足で回る背中を追いかけながら、私は配属の不運を嘆いた。時間にも厳しい人で、酒席がいかに深夜に及ぼうと、翌朝は定時に出社し、デスクで新聞を広げている。二日酔いで痛む頭を押さえつつ、涼しげにさえ見える横顔を恨めしく思ったものだ。 ところが休日は一転するらしい。先輩共々、初めて自宅に招かれて驚いた。食卓には自慢の手料理の数々。そして壁一面の本棚に並ぶ、落語の名盤。「蕎麦をすするってえのも、扇子をちょいとこう持ってな」座布団並べて即席の寄席が開かれる。近隣の自治会に呼ばれ、小噺を披露することもあるとか。会社人と趣味人、団塊の世代ならではの二面性をのぞき見た気がした。あの時から二十年。本社転属になった私は、久しぶりに元上司とエレベーターの中で一緒になった。「いよいよですね」「湿っぽい言い方するなよ。やりたいことだらけの俺にしたら、六十は定年じゃなくて三度目の成人式なんだから」「三度目の…?」 茶目っ気たっぷりな物言いに、趣味人の一面がのぞく。コートの襟を立て足早に出て行く後ろ姿が、あの頃より若々しく颯爽として見えた。

三度目の成人式。入社当時にお世話になった上司が、今月、定年を迎えるという。営業一筋、三十余年。年に十足は靴を履き潰すという彼は、まさに「契約は足で取れ」という言葉を地で行く人だった。雨の日も風の日も、ビル街を早足で回る背中を追いかけながら、私は配属の不運を嘆いた。時間にも厳しい人で、酒席がいかに深夜に及ぼうと、翌朝は定時に出社し、デスクで新聞を広げている。二日酔いで痛む頭を押さえつつ、涼しげにさえ見える横顔を恨めしく思ったものだ。 ところが休日は一転するらしい。先輩共々、初めて自宅に招かれて驚いた。食卓には自慢の手料理の数々。そして壁一面の本棚に並ぶ、落語の名盤。「蕎麦をすするってえのも、扇子をちょいとこう持ってな」座布団並べて即席の寄席が開かれる。近隣の自治会に呼ばれ、小噺を披露することもあるとか。会社人と趣味人、団塊の世代ならではの二面性をのぞき見た気がした。あの時から二十年。本社転属になった私は、久しぶりに元上司とエレベーターの中で一緒になった。「いよいよですね」「湿っぽい言い方するなよ。やりたいことだらけの俺にしたら、六十は定年じゃなくて三度目の成人式なんだから」「三度目の…?」 茶目っ気たっぷりな物言いに、趣味人の一面がのぞく。コートの襟を立て足早に出て行く後ろ姿が、あの頃より若々しく颯爽として見えた。

三度目の成人式。入社当時にお世話になった上司が、今月、定年を迎えるという。営業一筋、三十余年。年に十足は靴を履き潰すという彼は、まさに「契約は足で取れ」という言葉を地で行く人だった。雨の日も風の日も、ビル街を早足で回る背中を追いかけながら、私は配属の不運を嘆いた。時間にも厳しい人で、酒席がいかに深夜に及ぼうと、翌朝は定時に出社し、デスクで新聞を広げている。二日酔いで痛む頭を押さえつつ、涼しげにさえ見える横顔を恨めしく思ったものだ。 ところが休日は一転するらしい。先輩共々、初めて自宅に招かれて驚いた。食卓には自慢の手料理の数々。そして壁一面の本棚に並ぶ、落語の名盤。「蕎麦をすするってえのも、扇子をちょいとこう持ってな」座布団並べて即席の寄席が開かれる。近隣の自治会に呼ばれ、小噺を披露することもあるとか。会社人と趣味人、団塊の世代ならではの二面性をのぞき見た気がした。あの時から二十年。本社転属になった私は、久しぶりに元上司とエレベーターの中で一緒になった。「いよいよですね」「湿っぽい言い方するなよ。やりたいことだらけの俺にしたら、六十は定年じゃなくて三度目の成人式なんだから」「三度目の…?」 茶目っ気たっぷりな物言いに、趣味人の一面がのぞく。コートの襟を立て足早に出て行く後ろ姿が、あの頃より若々しく颯爽として見えた。

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