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目が覚めるのは11時だった。もちろん、午前ではなく、午後11時。 なにかの間違いではなく、ほんとうのこと。あの頃、ぼくたちは、深夜に生きていたのだ。
「ABCヤングリクエスト」は朝日放送ラジオの深夜番組。名前の通り、リスナーからのリクエスト曲をかけた。通称「ヤンリク」。始まったのは1966年4月、ぼくが中学3年生のとき。たちまち、ぼくは、いや、周りの連中もみんな、夢中になった。「ヤンリク」のスタート時間は、午後11時(正確にいうと11時10分)。それは、ぼくたちにとって、なにか素敵なことが始まる場所への集合の時間だった。
どうして、ぼくたち中学・高校生は、あんなにラジオに夢中になったのだろうか。他にも楽しいものはたくさんあるように思えたのに。
学校に行く昼間、親のグチを聞かなきゃならない昼間、いい子でいなきゃならない昼間、受験のためにいやいや学校の教科書を開かなきゃならない昼間、塾に行って知らない同学年の子たちの群れの中で習い覚えた解法を機械的に試すだけの試験を受けなきゃならない昼間、クラスの中でほんとうは親しくもないのにとりあえず仲のいいふりをしているだけの「友だち」という名の他人と話をしなきゃならない昼間……。
ふと目をあげる。親も先生も同級生も親戚も、よく行く喫茶店のマスターも小さな本屋の奥で居眠りをしている店主のおじいさんも、ほんとうはなにを考えているのかわからない。ひとり、たったひとり。そんな気持ちで生きていた昼間。
けれども、ひとりじゃなくなる瞬間がやって来るようになった。午後11時に。
それまでも、あちこちのラジオで少しずつやっていた深夜放送が一斉に始まったのだ。ぼくが住んでいた関西の方が少しだけ早く、「ヤンリク」がその先駆けだった。6月には、ラジオ関東で「オールナイトパートナー」、12月にラジオ大阪で「オーサカ・オールナイト」。関東で「パック・イン・ミュージック」や「オールナイトニッポン」が始まったのは、翌年の1967年だった。
学校から戻るのが夕方。お腹がすいているので、途中で何かを買い、家に着いてから食べた。眠いので少し仮眠。起きると、今度は夕飯。なんだかだるい。母親が小さな声でいう。「勉強の方はどうなってんの?」「うーん、ぼちぼち」。ぼくは適当に返事をして誤魔化す。食事が終わると、早々に子供部屋に退散。子供部屋といっても弟とふたりで使う4畳半。机が二台、空いたスペースに布団を敷いて寝るのだ。宿題をやらなきゃ。でもやる気にならない。いつものことだ。なんのために勉強をするんだ? 大学に合格して、いい会社に入って……そして、そして……退職して、年老いて……いけない、いけない。そんなことを考えている場合じゃない。でも、やる気になれないなあ。からだもだるいし。母親が「あんた夜更かししすぎてるんちゃうの?」という。「うーん、そんなことないで」と答える。もちろん、うそだ。だらだらしているのも、ぼんやりしているのも、みんな、これから始まる時間に備えるためなのだ。そして、11時がやって来る。イッツ・ショー・タイム!
深夜放送は、みんな同じだった。いつものパーソナリティー、陽気なことば。そして、リスナーからの手紙。もちろん、本名ではなく、みんなラジオネームで。
そこでは、ぼくたちは、別の名前を持っていた。昼間には使わない別の名前。そこでなら、昼間に隠していた本音をしゃべることができるのだ。ぼくたちの好きな曲をリクエストし、おしゃべりをする。あっ、こいつ、いいやつだ。おや、なんか趣味が合うなあ。おっと、おもしろいことをいうじゃないか。そうそうそう、そうだよね、ぼくもそう思っていたんだよね。
あんなに眠く、だるかったのがウソのように、ぼくたちは、ラジオに熱中していた。ザ・スパイダースの「夕陽が泣いている」も、ザ・ワイルド・ワンズの「想い出の渚」も、沢たまきの「ベッドで煙草を吸わないで」も、ザ・ローリング・ストーンズの「黒くぬれ!」も、ザ・ビートルズの「デイ・トリッパー」も、聞き始めたばかりの「ヤンリク」から流れていた。ぼくは、「ブルー・シャトウ」も「真赤な太陽」も「世界は二人のために」も「恋のフーガ」もみんな歌える。みんな67年のヒット曲だ。「君の瞳に恋してる」も「青い影」もみんな……。
シンデレラは魔法でお姫様になり、午前0時にその魔法が解けた。けれども、ぼくたちは、午後11時に魔法にかかり、朝まで夢の中にいた。
ぼくは今年で70歳。あの頃のように夢中になれるものはもうない。でも、いまでも、夜11時になると、心の奥底で、震えるものがある。あのとき、「ラジオの時間」があったのだ。
1951年広島県生まれ。1979年1月に放送された「松山千春のオールナイトニッポン」に触発されて本格的に文章を書きはじめる。1981年『さようなら、ギャングたち』で群像新人長編小説賞優秀作、1988年『優雅で感傷的な日本野球』で三島由紀夫賞、2002年『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞、2012年『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎潤一郎賞を受賞。その他小説、随筆、評論、エッセイなど多数執筆。