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いつも辛辣(しんらつ)で扱いの大変だった母と私は、決して仲が良かったわけではない。
家の改装費を出そうが旅行に連れて行こうが、喜んでくれない上にもっとお金を出してという感じだったので、そのタイプの親孝行をがんばるのもきりがなく、あるところからもうすっかり諦めていた。
今思い返しても、イタリアで受賞してもおめでとうのひとつも言ってもらえなかったことや、目の手術をして痛くて苦しんで寝ていても、「あんたが勝手にしたんだから知らない」と言われたことを思い出すと腹が立つ。もう中年というよりも老年に差しかかっても、そういう傷は消えないものだなと自分のそんな気持ちをほほえましく思う。
母は男の子を育てたことがないので、私の息子が小さいとき、それはもう大変なかわいがりようだった。そのかわいがる心をちょっとでもこちらに向けてもらえていたら、こんな荒(すさ)んだ娘にはならなかったんだけど、と思いながらも、楽しそうに孫と遊ぶ姿を見ると、もうこれで親孝行は充分、と思ったものだ。
大腿(だいたい)骨を骨折してほぼ寝たきりになった晩年の母は、昼間はほとんど眠っていて会いに行っても寝たままのことが多かった。でも、夜9時くらいになると突然起き出して、明け方までテレビを観(み)たり、焼酎の水割りを飲んだりして、けっこう楽しそうに暮らしていた。
母が孫と話したがっていたので、ボケ防止のために毎日夜の11時くらいに電話をするようにしていた。姉に電話をしっかり充電しておいてもらって、母のベッドのわきの机の上に置いておいてもらう。しつこく鳴らすと、母はゆっくりと起き上がってちゃんと電話に出てくれるのだ。
最初私がちょっと話して、「代わるね」と息子に変わる。息子は当時5歳くらいだったから、あんまりしっかりした話はできない。だいたいお決まりの「今日は幼稚園行ったよ」とか「今テレビ観てる」とか「カレー食べた」とかいう会話をして、「ばーば、おやすみ」と言って切る。
その頃は海外での仕事や地方出張が多かったので、11時に電話をかけるのにけっこう苦労した。
インドネシアから電話したときは、電波が悪くて「今どこにいるの?」という母に、「バリ」といくら言っても、「そう、家にいるのね〜」などととんちんかんなままだった。息子も「よく聞こえないけどおやすみ」と言っていた。
バリの電気の暗いカフェのテラスで、空には星がキラキラ光っているところで、母の声が耳元に聞こえているのがとっても不思議だった。母はもう旅行することはない。家から出ることもほとんどない。そうなんだな、としみじみ思った。親といっしょに動ける期間はとても短く、たいていの親が歳を重ねて出かけるのがますますおっくうになっていくので、結局きっとどの家でも、大人になってから親と旅をすることなんて数えるほどしかないのだ。
携帯電話が通じない新幹線の中から、テレホンカードで電話したこともあった。「今新幹線だよ!」と息子が言い、「気をつけて帰りなさいよ」という母の声が、窓の外の真っ暗な街並みに重なって切なかった。
だから今でも夜の11時くらいになると、少しだけそわそわする。座っていられないような、何か大切なことを忘れているような。
自分の中でその理由はわかっている。当時、もし電話をし忘れたら、母はあまりはっきりと理由はわからない状態であっても、なんとなく淋(さび)しいような、何か足りないような気持ちでひと晩を過ごす(なにせ夜寝ないから)んだろうな、と思っていたから。
息子がいつもいっしょにいる時期だったから、夜の11時は確実に起きていっしょにいる。息子も宵っ張りだったから、ばりばりに起きていた。子どもって夜9時くらいに寝ると思い込んでいたので、放っておいたらずっと起きている彼にびっくりした。子どもが寝てからやろうと思っていたことなんて、何もできなかった。
でもその宵っ張りが、このケースでは最高に活(い)きた。たまに頭がはっきりしているときの母はすぐに電話に出て、「待ってたのよ」と嬉(うれ)しそうに言った。その声を聞けただけでもよかった。
今となっては「ああ、もう私には電話をする当てはないんだな、あのときがんばっておいてよかったな」としみじみする。仲が良くなかったからって、愛してなかったわけではない。電話の向こうにいてほしくなかったわけではない。
今はもう息子もバイトだデートだと帰ってこなくて、終電の時間だけが気になるくらいになった。いつもつないでいた手も離れてしまったし、夜の11時に隣にいることもめったにない。
あれはあの時期にしかない奇跡のコラボだったのだな、と思う。人生はいつでも、そういう奇跡をちょっとだけ用意してくれるのだ。
撮影:Fumiya Sawa
1964年、東京都生まれ。日本大学藝術学部文芸学科卒業。1987年『キッチン』で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。 1988年『ムーンライト・シャドウ』で泉鏡花文学賞、 1989年『キッチン』『うたかた/サンクチュアリ』で芸術選奨文部大臣新人賞、同年『TUGUMI』で山本周五郎賞、 1995年『アムリタ』で紫式部文学賞、2000年『不倫と南米』でドゥマゴ文学賞を受賞。著作は30カ国以上で翻訳出版されており、海外での受賞も多数。近著に『吹上奇譚 第三話 ざしきわらし』がある。