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とあるひととき ~作家の見つめる風景~

あの夕暮れへ帰る

あの夕暮れへ帰る

あの夕暮れへ帰る

episode 07

harada maha  原田マハ

夏の夕暮れは、ゆるゆるとやってくる。

日が長くなってきたな、と、ふと気がつくのは、毎年、3月の終わりくらいだろうか。

冬のあいだは夕方5時頃になれば、もう暗くなって、なんとなく気ぜわしく、仕事でも、外出先でも、そそくさとし始める。帰り道はすっかり夜で、いてつく風の中だ。

だけど、桜の開花情報が聞こえるようになり、ふっとあたたかくなってきた日の夕暮れどきに、今日は夜桜見物にうってつけだな、などと思う。そんなとき、日が長くなったんだなと気がついたりする。

そうこうするうちに春が去り、風薫る5月が訪れる。そして6月。ここまでくると、いよいよ夕暮れはのんびりと構えて、午後6時を回ってもまだ明るさが残り、午後7時頃に夕日が隠れ、薄明るい夜になる。夏至の頃は午後7時でも完全な夜ではない。夜をはらんだ夕暮れと呼びたい感じである。

「日脚」という言葉がある。辞書によれば「太陽が東から西へ移っていく動き・日が出てから沈むまでの長さ」という意味だ。太陽が動く軌跡を「脚(あし)」と表現するのは、日本語の妙である。

私がことさら季節の移ろいを日脚の長さで意識するようになったのは、パリに頻繁に通うようになってからだ。

初めてパリを訪れたのは20年以上前のことになる。季節は6月、ちょうど夏至の頃だった。夕方6時頃にパリ市街に到着したのだが、日差しには力がみなぎって、真昼のように明るく、夕暮れはどこにもない。時計を見て、「えっ、もう6時過ぎなの?」と驚いた。1年のうちでもっとも日脚が長い日とはいえ、パリの夏至は信じられないほどいつまでも明るく、このまま夜はこないんじゃないだろうかと思ったくらいだった。夜10時半近くなってようやく夕暮れてきたとき、なんだかほっとしたことを覚えている。

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ヨーロッパで、特にパリのように北に位置する都市に暮らす人々は、冬の日が短く暗く寒いので、長い日脚をことさらいとしむ。パリ市民はなかなか暮れない夏の日を満喫しようと、カフェのテラス席に陣取ってワインを飲み交わし、おしゃべりに興じる。通りのあちこちでストリート・ミュージシャンが楽器を奏で、若者たちは歌い、踊り、はしゃいでいる。湿気が少なくからりとした気候も一役買って、人々は長い夕暮れをオープンエアでいつまでも味わっている。

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パリに通い始めてまもなく、私は世界でいちばん美しい夕暮れの風景を発見した。

それは、オランジュリー美術館の展示室の壁面に広がる、クロード・モネが描いた「睡蓮」の絵の中にあった。

ふたつの連続した楕円形の展示室は、真っ白な床と天井で、壁いちめん、睡蓮の池の絵で覆われている。赤や白の睡蓮は、あたたかな灯火(ともしび)のように池のあちこちに浮かび、池のほとりの柳の枝がその長い腕をゆらゆらと伸ばす水面は、空を映して静まり返っている。

朝、昼、そして夕暮れと、移ろう時を追いかけて描かれた睡蓮の池は、すべてが同じ池のはずなのに、どれもが違う表情をしている。

移りゆくこの世界に一度たりとも同じ時間はなく、だからこそ一瞬一瞬が美しく、いとおしいのだと、画家は絵筆を通して私たちに語りかけている。

モネは晩年に白内障を患い、ぼやけた視界の中で睡蓮の池をとらえ、カンヴァスに写しとった。

「光だけが見える」と、画家の言葉が残されている。冬には見えなかったものが、夏になれば明るく長い日脚のもとでなら見ることができたのだろう。

オランジュリーの夕暮れの睡蓮が、ことさら美しく感じられるのは、モネがもはやそれを見ているのではなく、「感じて」描いたとわかるからだ。

夏、ことさら夕暮れ時、どこにいても、私はモネの夕暮れの睡蓮を思い出す。そして、また帰って行こうと思う。しみじみと胸に迫るあの夕暮れの中へ。

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©️森 榮喜

原田マハ

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