とあるひととき ~作家の見つめる風景~

夕暮れの、 どんな空を見ても

夕暮れの、 どんな空を見ても

夕暮れの、 どんな空を見ても

episode 06

kawakami mieko 川上未映子

わたしは自宅から自転車で7分くらいのところに部屋を借りていて、いつもはそこで仕事をしている。息子の通う学校は仕事部屋の近くにあるので、朝はまず彼を送り届けてから一日を始めるのだけれど、これを書いている今は新型コロナウイルスのために外出自粛をしている最中なので、習慣の多くが途切れてしまっている。自宅学習をする息子とキッチンのテーブルでパソコンを並べてなんとか仕事をしているけれど、これがなかなかうまくいかない。夫も同業なので、3人がずっと家にいる状態。ふだん顔をあわせすぎないことで保つことのできていた距離や思いやりが、だんだん痩せていくのを感じている。当然のことながら執筆もままならない。これは気持ちの問題というよりは体の問題で、いつも見ている画面の大きさ、椅子と机の高さのあんばいの違いといった小さなことがいつもとは違う結果を生んでしまうのだ。1時間もしないうちに腕も肩もきしきし痛みだすし、文章もなんだかぎこちない。自分の体と習慣が作っていた調和って大きいものなんだな、としみじみ思った。

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夕方は息子を迎えにいって、自宅に帰る。もうずいぶん長い間、ほとんどの日々を、わたしは息子を自転車の後部座席に乗せて夕暮れのなかを走っている。信号待ちをするとき、踏切が開くのを待つとき、必ず西の空を見る。雲ひとつない日もあるけれど、目を見張るような夕焼けが広がるときもある。もちろん、ささやかな夕焼けも。でもどの夕暮れの空にも共通しているのは、それを見るといつも胸がつまることだ。そのときばかりは、美しいということが、もう取り返しのつかない何かと、淋しさそのものとしか言えないような何かと見分けがつかなくなって、息が止まる。

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昨年の初夏に、母のようにわたしを育てた祖母が亡くなった。幼い頃から、わたしはいつか必ずやってくる祖母との別れを極度に恐れていた。その恐怖はかなりのもので、子どもの頃からいつかわたしを捉えるだろうその時を思ってはめそめそと泣いて、祖母に泣くな泣くなと笑われていた。病室でだんだん枯れていく(老衰だったので、本当にそのような感じがした)祖母を見つめながら、あれからどういうわけか長い時間が経って、あんなに恐れていたことに今こうして立ち会っている、その時に自分が本当にいるのだと思うと、なんだか不思議な感じがした。祖母がいなくなってから数ヶ月は、家事をしていても自転車に乗っていても眠っていても、ふらふらしていた。体の芯が定まらない感じで、「ふらふらしてんなあ」と、よく独りごとを言っていた。

夕暮れの、どんな空を見ても祖母を思いだすようになった。かすかな雲にも、震えるほど見事なうろこ雲にも、この世のものとは思えないばら色の深い明るみにも、それが目に映った瞬間に、わたしは祖母のことを思いだす。どうしてだろう。考えてみれば、わたしは祖母と夕焼け雲を見つめたことなど一度もなかったし、空や雲や、自然の美しさについて話したこともなかったはずだ。それでも、祖母を思いだす。わたしの胸をつまらせる夕焼けの空や雲は、まるで祖母の顔や形をしていない祖母にでもなってしまったようなのだ。あるいはそれは、思い出そのものと言ったほうがいいのかもしれない。思い出とは不思議なものだ。風景の色にしろ見たものの形にしろ、具体的に思いだせるものも多いのに、しかし「残りかた」としては、とても曖昧なのだ。ひとつひとつのしっかりとした事実がひしめきあってその密度が極まったとき、境目はゆるみ、すべてが流れこんで混じりあい、どこまでも色を広げてはやがて消えてしまう夕焼けのように、ほどけてしまうのかもしれない。わたしたちはみんな、そうなるのかもしれない。どうして夕暮れの空の、あの雲や色や時間の流れてゆくさまは、思い出とこんなにも相似しなければならなかったのだろう。何度も踏切をやりすごし、燃える空を見ながら、「夕焼けを見ると光子ばあばを思いだす」とわたしは息子に言う。息子も、黙って空を見ている。

この文章の冒頭を書いてから10日が経った。さきの見えない自粛生活にもほんの少し慣れてきたのか、べつの調和が芽生えつつあるのをほのかに感じる。時間の区切りや気持ちの切り替えや、前向きになるための新しいこつみたいなのがありそうで、わたしたちはそれに近づいたり離れたりしている。

このあいだ息子と久しぶりに夕暮れの散歩に出た。その日の夕焼けはすぐそこに触れるほどにありありと広がり、そういえば、これまで世界に空がなかったことって一度もなかったんだな、と思った。そんなことを言えば地面だって海だって光だってそうなんだけれど、でも空だってそうだ。地上で何が起ころうと、人間がどんな愚かなことをしようと、空という現象はそのままそこにありつづける。もう二度と会うことのできない人の、絶対に失われることのない何かと空は、どこかで深くつながっているのだと思う。わたしも息子も、黙って夕暮れの空を見ていた。

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撮影: YUTO KUDO/Madame Figaro Japon

川上未映子

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