♪音楽をお聞きになる場合は、こちら

とあるひととき ~作家の見つめる風景~

指一本、指二本……

指一本、指二本……

指一本、指二本……

episode 05

shigematsu kiyoshi 重松清

娘2人がまだ幼かった頃——1990年代半ばから2000年代前半にかけての10年近く、僕はとても早起きな生活を送っていた。

いばるほどのことではない。起床は午前6時45分。その程度で「とても早起き」だなんて言うと、たちまち、あっちこっちからブーイングをぶつけられてしまうだろう。ごめんなさい。先に謝っておきます。

それでも当時の僕は、前半が「ときどき小説を書くフリーライター」であり、後半は「フリーライターの仕事もつづけている小説家」だった。根っこはフリーライターそれも、無署名で週刊誌の記事を次から次へとまとめていくアンカーマンだった。

注文があればなんでも書く。どんなことでも面白い記事にして、読者アンケートでいい成績を出してやる。僕の仕事は、格好をつけて言えば「文章の職人」であり、身も蓋もなく、当時の自分の実感を素直に言葉にすれば「記事製造マシーン」だったのだ。

仕事の基本は受け身だった。そもそも編集部から注文がなければ動けないし、仕事を引き受けたあとも、記事の母体となる取材原稿が届かないことには仕事に取りかかれない。しかも翌朝の5時や6時に設定されている原稿の締切は延ばせない。

充実した取材原稿があれば、こっちにも最高の記事を書く自信はある。だが、とにかく週刊誌は時間との勝負だ。締切の時間は動かせない。取材記者の「もうちょっとねばらせてくれ!」を受け容れると、僕が原稿を書く時間が削られてしまう。3時間かけて書けばすごい記事になるはずなのに、それを1時間で書かなくてはならないのか……。

複数の雑誌でアンカーマンをやっていたので、ほとんど毎晩そうだった。当時のストレスを思いだすと、いまでもゾッとする。30代の若さだったから、やっていけたのだろう。

image-01

image-01

image-01_s

そんな生活を送っていた頃の朝は、フリーライターとしては、1日の仕事の終わりだった。なんとか締切に間に合わせて原稿を送ったあとは、すぐにでもベッドに倒れ込んで眠ってしまいたい。

しかし、僕はフリーライターであると同時に、父親でもあった。1日の始まりを迎えたばかりの娘が待っている。当時、妻は高校の教師だったので、ふつうの会社よりも朝が早かった。娘を保育園に送っていく余裕はない。ならば、僕がやるしかないではないか。

楽ではなかった。正直に言わせてもらう。6時過ぎに原稿を送ったあとも、ソファーで仮眠をとるのがせいぜいで、7時過ぎに妻が出勤したらすぐに娘を起こし、8時前にはウチを出て保育園に向かう。しかも、娘たちは学年で6つ違うので、長女が保育園を卒園したら入れ替わりに次女が入る格好だった。早起きの朝は目一杯続いたことになる。

それでも、いま振り返ってみると、あの頃の毎朝の大変さが、じつはかけがえのないよろこびを与えてくれていたのだと思う。

ウチから保育園までは徒歩5分。一番小さな『つぼみ組』さんの頃はベビーカーを使っていたのだが、2歳児の『すみれ組』さんになると、手をつないで歩いて登園だ。僕が人差し指を1本出すと、それを娘がギュッと握って歩く。2歳児の小さな手では、僕の人差し指1本がちょうどいいのだ。それが3歳児の『ばら組』さんになると、僕の人差し指と中指の2本を握って、ぴったりになる。4歳児の『ひまわり組』さんの頃は人差し指と中指と薬指の3本で、5歳児の『ゆり組』さんになると、いよいよフツーに手をつないで歩けるんだな……と楽しみにしていたら、長女も次女も(性格は全然違うのに)、そこだけは一致して「もう、パパとは手をつながずに歩く!」と言いだすのだ。

「思春期の娘に邪険にされるパパ」の寂しさをいち早く味わった僕は、長女のときも次女のときもがっくりと落ち込んで、それでも、我が子の成長がうれしくて、ゆるんでしまう頬を必死に引き締めていたのだった。

あれから10数年の歳月が流れ、娘たちは共に成人した。パパと手をつないで歩いてくれたのは、保育園に通っていたあの頃だけだった。寂しい。けれど、ほんの3、4年の「パパと娘が手をつないで歩いた日々」の記憶が、還暦が見えてきた僕にとっては、とても大切な思い出になっている。将来の展望が見えないフリーライターの不安定な暮らしの中、指1本、指2本……と、娘たちが確かに大きくなっているのを肌で感じることが、どれほどの勇気を与えてくれたことか。

いつか2人に話してやろうと思いながらも、まだ言えずにいる。もしかしたら、いや、たぶん今後もずっと言わないような気がする。親子の思い出話の締めくくりが、親からの「ありがとう」で終わってしまうのは、やっぱり照れくさいものね。

だから、いま、こっそり書いた。

娘たちにはナイショにしてください。

image-02

image-02

image-02_s

重松清

Page Top